小説「愛しき人へ」の続きです。 ホテルで別れたあとのシーンからはじまり、「愛しき人へ」は今回が第一章の終わりです。
音楽は、グローバーワシントンJr.(Grover Washington Jr. )のアルバム 「Come Morning」から「East River Drive」をお聞きください。
ジャズというよりは、フュージョンですね。まだ夜の明けきっていない海岸線をひとりドライブして、海の良く見えるところに車を止めて太陽が顔を出して海が赤く燃えるところを、この音楽を聴きながら静かにみつめる。素敵な時間になると思います。ドライブに行かなくても、部屋を暗くしてじっと海に思いをはせる。そんな時間も大切だと思います。
それでは、「愛しき人へ」 3 をお楽しみください。最後に置いた今週の大きな字の読み物もお年寄りの方々にご活用くださいね。


(愛しい人 2よりつづく)
ゆっくりとシフトダウンしながらブルーのシトロエンは空港検問所に入っていった。エンジンの音は低くなり、それとは逆にステレオから流れるジャズの演奏が妙に甲高く流れていった。
右手でそのボリュームを落とし、窓を開けた。
「お出迎えですか?」年老いた感じのいい検問官が言った。
「いや出発です」
「トランクを調べますのでご協力ください」
白髪の検問官は車の後ろに回ると、ごく簡単に形式的なチェックをおこなった。
「OKです。パスポートとフライトを確認できるものを見せてください。あと、車の下と、すみませんが、車の中もチェックさせてください」
「いいですが、今日はやけに厳重ですね」
「ええ、最近テロの警戒が厳しくて、細かく確認させて頂いてます。申し訳けありませんが、ご協力ください」
「ああ、いいですよ。なんだか物騒ですね」
いつもの僕なら、捜査権もないのに車の中をあっちこっち荒らされるのは問題じゃないかな、と少し不愉快になるところだけど、彼女との別れのせいか、あるいは、この検問官の温和な態度からか、やけに従順になっているようだ。
僕がブレザーの胸ポケットからパスポートを出し、携帯の航空券予約票を検問官に渡そうとした時、赤いパスポートに真っ白な封筒が挟み込まれているのに気が付いた。僕はその封筒を抜いて検察官へパスポートと携帯を渡した。
封筒の表には彼女の綺麗な字で「愛しき人へ」と書かれていた。封筒の右隅には昨晩泊まったホテルの名前が印刷されていて、彼女が僕が寝ている少しの間に書き残していったものだと想像できた。
「ご旅行ですか?」パスポートと携帯を見ながら検問官は言った。
「いや、むこうに住む予定にしています」彼女の手紙を裏返して助手席に置き、僕は答えた。手紙に動揺して少しドキドキしていることが検問官に伝わるのがなんとなく怖かった。
「わかりました。車はどうするんです?」
「あとで友達が取りに来てくれることになってます」
「そうですか。良い旅と健康をお祈りしますね」白髪の検問官はそう言いパスポートと携帯を返したあと、礼儀正しくお辞儀をした。
頭を下げた時に見えた彼の首筋に父親の匂いを感じた。この人には僕と同じくらいの息子がいるのかもしれない。ふと、そう思った。
検問所をでて数分走り、パーキングの手前でシトロエンは最後のカーブを通りすぎた。ステアリングを戻す瞬間にキッという音が鳴った。それは、彼から僕への最後の言葉だったのかもしれない。隙間なく車が駐車されている入口付近をまっすぐに抜け、ターミナルから一番離れた場所に車を停めた。周りにはほとんど車が停まっていない。
ステレオのスイッチを切り、イグニッションキーを左へ半分ほど回転させるとエンジンが停止し、その瞬間、車は動かぬ個室へと変わった。僕は左右の手でステアリングを握りしめ、長らく付き合った友へ感謝と別れを伝えた。
窓をあけると風が流れ込んできた。秋のさわやかな風だった。
ゆっくりとした動作で、助手席に置かれた彼女からの手紙を拾い上げ、封を切った。
「今日は、どうもありがとう。あなたが眠っている間に帰ります。
あなたは、もちろん知らないでしょうが、あなたの寝顔ってとっても素敵よ。子供のような無邪気な顔をしていて、なんだか頬ずりしたくなるような感じがするの。今もこんな悲しい夜をまったく感じていないような天下泰平の寝顔よ。きっと一生忘れることはできないと思います。
今晩あなたに結婚しようと言われて、本当にうれしかった。だって、ずーっと思っていた夢が現実になったんですもんね。結構という言葉を出してしまうととたんに陳腐になってしまうけれど、ただ、あなたがずっとそばにいてくれて、私を愛してくれて、私もあなただけを愛し続けて、、、、それが私の本当の夢だった。一緒にいられるだけで幸せだったの。
ただ、私は、ダメな女だから、、、ただ欲張りなのかもしれないけど、本当の夢をあなたに伝える前に虚像の夢を追ってしまったの。
最初ステージに立ちたかったのは、あなたを振り向かせたかったから。でも、いったん光を浴びたあとは、次の光を求めてしまうものなのね。仕事をしたいからじゃない。仕事を得たいからじゃない。ただ、虚像の夢を繰り返し、繰り返し追うことで自分というものの存在を常に明らかなものにしておきたかっただけなの。私は、本当の夢をもちつづけながらも虚像の夢を追ってしまった。
まどろっこしい言い方してごめんなさい。正直に書きます。
私はあなたと付き合っていながら他の男性に抱かれました。正確には男性達に。仕事をつかむためにという単純な動機であれば、私自身はなんだか許せるような気がします。(もちろん、あなたはそれでも絶対に許してくれないと思いますが、、いや、あなたなら許してくれるかも、、なんだか、ひどい思い上がりね。ごめんなさい)でも、違うんです。恋をしている自分に気づいてしまったんです。彼らには、あなたに無い別な魅力を持っていました。都会的なセンス、ユーモア、おしゃれな会話、そして仕事への情熱。私はお酒に酔うように彼らにひかれていきました。恋をするたびに燃え上がり、あなたに対する後ろめたさも、また一つの恋の起爆剤になって、私は彼らを通りすぎていきました。年上の男性に恋する少女のような気持ちでした。ごめんなさい。私は悪い女なんです。」
ここまで読んだところで、便箋をダッシュボードの上に置いて、タバコに火をつけた。
手紙は、涙の落ちた痕で、ところどころ字がかすんでいた。彼女が僕の全く知らない誰かに抱かれている姿が浮かんでしまい、胸が締め付けられるように苦しくなる。ただそれよりも、彼女が、暗いホテルの部屋で一睡もせずに、一生懸命この手紙を書いている姿を想像すると胸が痛んだ。別に、こんな辛いことを無理に書く必要は何もない。別れを明確にして、僕がもう追いかけないようにするためだろううか。いや、どうしても、そうとは思えない。たぶん、彼女の誠意なんだろう。でも、僕への精一杯の誠意を示すために、なぜここまで自分を傷つけるのだろう。僕のわがままな振る舞いが彼女をここまで追い込んでしまったのかもしれない。
遠くで離陸する飛行機をみつめながらタバコを吸った。煙が彼女の手紙の上をかすめ、窓の外へ流れていった。半分くらい吸ったところで、手紙の続きを読み始めた。
「でも、最近になってやっとわかったんです。これは、彼ら個人個人の魅力ではなく、彼らの住む世界の魅力であって、彼らの魅力だと思っていたことのすべては、あなたがすでに身に着けていた魅力だったんです。彼らは、あなたより自己表現がうまかっただけなんです。あなたは、器用な人じゃないから、、いいえ、私が馬鹿だったから、、、今さらそんなことがわかっても、もう昔には戻れないでしょう。虚像を追っている以上、すべてが虚像ですもんね。馬鹿な私は、きっと、また偽りの虚像の世界に迷いこむに決まっています。虚像の夢を捨てたところで、寄り道した私は、あなたの胸に飛び込む資格はありません。
私には、今このままを生きていくことしか道は無いようです。
本当の夢はこの部屋に捨てていきます。
さようなら
愛しい人へ」
僕は目をつぶった。何かが違っている。どこかが、間違っている。でもそれが何なのかわからない。本当にこのままでいいのだろうか。頭まで痛くなってきた。
ホテルの部屋で僕は先をみつめていた。その時、彼女は過去を考えていた。二人とも一番大切な今という時間を無視していた。彼女の手紙は過去を基準に今を考えている。それでいいのだろうか。今の僕にとっての彼女は何だろう。そして彼女にとっての僕は。今も彼女を愛している。
僕は何も考えられない状態で車を降り、空港ビルへ入っていった。出発ロビーは多くの団体客で賑わっていた。ボーディングの時間が来るまで椅子に腰かけ、ただ、呆然と回りの喧騒を眺めていた。
そしてロサンゼルス行きJAL 16便のボーディングが始まった。
愛しき人へ 第一章終わり
下のPDFは、介護中、入院中のお年寄りの方が楽に読めるように大きな字の読み物です。昔、本を読んでいたお年寄りの方々も、普通に本を読むのは難しくなってきていると思います。この大きよな字の読み物がリハビリの一環になるといいなと思っています。
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